絵のような話

 絵のような小説を書きたい、と思っている。

 多分そう思っている。思っているだけで、書けているかは知らない。日々何かしらの文章を書いている(と言っても二次創作でだ)が、ほとんど掌編で、あんまり長い話は書かない。たぶん書けないのかもしれないと思う。

 それでおそらく、自分は絵のような小説(と呼ぶのが高尚であれば、文章、でいい)を書きたいと思っているのではないか、と考えた。それは自分が絵を描けない劣等感のようなものを抱いているからだろうと思う。

 絵を描くのは大変なことだ。絵を描ける人、それまでに何千時間何万時間と絵に懸けてきた人の努力を尊敬する。私にそれはできない。だから絵は描けない。ただ、描けないことには劣等感を覚える。門が違う。描きたいなら練習すればいいのだが、自分の理想どおりにならないことには黙って耐えられないらしい。それで放り出すので、いつまでも描けない。

 絵の表現が完成するまでには大変な労苦がある。大まかな図を決める。下書きをする。それから線画を作って、それから色を塗る。色塗りもざっくり一色を塗ればいいというものではない。人によるが、さまざまに塗り分ける。それから効果をつけたり、線画の色を変えたり、背景を調整したりとやることが多い。一枚作るのにたいへんな時間と手間がかかる。

 それを思うと、字の表現は簡単である。書いて、終わり。今は画像に起こすのも簡単だ。推敲の手間はゼロではないが、文章は誰にでも書ける。巧拙は問題ではない。絵の巧拙も現在問題にしていない。ただ工程が違う、工数が違う、ということだ。せっかちな私には、絵を完成させるだけの気長さがない。だから工数の少ない字で表現する。

 しかし、たぶん表現したいのは場面なのだと思う。だから一枚の絵で切り取れる話が多い。画面は変わり映えせず、ただ細かいところを描写したり、表情の奥を説明したりするに過ぎない。絵の説明を書いているのに近い。だからきっと、長い話は書けない。

 

 という、今日はそれだけ。

適齢期

 35で死のうと思っている。
 何故、というのはない。ただ漠然となんの目的もなく生きるには35が限度かなと思った。35の後は考えていない。まあだいたいいつもノープランで生きているので、おそらく35になったらなったで身の振り方は考える話だとわかっているが、まあなんとなく35あたりが潮時だろうと考えている。考えていた。そうこうするうちに35になる。
 困った。何もない。まあ何もないならないで計画通り35で死ぬだけだ。取り急ぎ今年で35なので、今年会う方は一期限りと覚悟しながら会おうと思う。会う方が居るのだろうか。このコロナ全盛期に。わからないが、そのつもりで居よう。
 だいたい芥川も太宰もこのくらいで死んでいるし、人の、と言っても私の場合は本当に近しい人間だけだが、誰かの記憶に残り続けるならこのくらいがちょうどいいのかもしれない。なんだちょうどいいって? わからん。結婚には適齢期という考え方があるそうだが、死にはないのだろうか。調べてみるかな。
 ところでふと、困った、と思うのだから、死ぬのも困るのだろうか。わからないが、死ぬためにする努力が、たぶん面倒なのだと思う。面倒ごとなく死にたいものだ。

旅行が苦手だという話

 旅行が苦手だ。
 とにかく旅行が苦手だという話をするので、旅行が好きで好きでたまらない人はこの時点で読むのをやめてほしい。

 まず、計画を立てるのがめちゃめちゃ苦手だ。計画を立てよう、と思うだけでもう三本くらい立ったのではないかというくらい気力を費う。一日歩き回る当日よりおそらく費う。それくらいかったるく、つらい。
 単なる外出もメインの目的以外は決めないし決めたくない。そしてたいてい決まらない。なんとなく、その場で決めたい。予定外があったときにパニックになるから、なりたくない気持ちが強すぎる。だから同じ場所を同じように巡っている。同じ店。同じ道。同じ音楽。
 一人で近所に行くならそれでもいい。旅行もそうすればいいのはわかる。一人で行け。しかし一人で行くとなると、途端にまあいいかなと思い始める。行くまでもないかもしれない。交通費をかけてそこまで行く必要はないかもしれない。そんなことを考えるうちに意欲はしぼみ、外出予定はなかったことになる。
 これは目的の魅力が足りないとか、そういう話ではない。諦めるならそれまでとかそういう話では一切ない。正直意欲の問題でもない。自分に金をかけるのが嫌なのだ。特に消えもの――食事に代表されるような、体験の類、そういうものに金をかけたくない。自分がその体験を得たところでたいした感想も出せないし、わざわざその価値をかけるほどの己ではないと思う。だから一人で行くのは金の無駄だと思ってしまう。体験そのものではなく、得る自分に価値がない。だから得る必要はないし、どうせならほかの誰かがそれを得て幸せになってほしい。
 だから、誰か同行者がいるならこれは考えなくなる。その人のために金をかけるし、その人のための体験なら喜んで行く。主体が自分ではないからだ。自分を他人に供せるなら問題はない。自分が体験するのではなく、その人が体験するその一部に自分がいる。だから自分のために金を払うわけではない。そう思えるならいい。ただし人と出かけるには計画が必要なので、これはこれで苦手だ。話が戻ってくる。

 だからまあ、旅行は苦手だ。そしてこれはとても旅行に失礼だから、家から出ない方がいいと思う。

 なお、実際に計画と違うことになったときのリカバリはできる方だとは思う。そんなもんだよなと思うだけで、さしてストレスにも思わない。だから計画をたてる自分が恐れているのは幻だ。わかっていても、それが嫌だ。

枝豆やだし巻きやちょっとした芋など

 酒が飲めないが、居酒屋に行きたいと思うことがある。

 酒は本当に一切飲めない。アルコール分があるだけで酔う。肝臓の分解能力がゼロなのではないかという疑惑がある(実際のところはほんの少しだけある、たぶん)。めちゃくちゃ薄いチューハイ(世間で所謂「ジュース」と評されるもの)も一口でじゅうぶん。注射だのなんだので肌をアルコールで拭かれるだけでかぶれて真っ赤になる。外出先でアルコール噴射されるのは、少量ならなんとかかんとか我慢できるがにおいがもう駄目。やめてほしい。というくらいアルコールが駄目なので、原則手の洗えない場所ではなるべく何にも触らないように気を付けている。待った今日はこの話をするために書いているのではなくて、酒の話。

 この酒が駄目なのは遺伝なので、基本的にどうすることもできない。職場の酒席は原則参加しない。金を払ってでも欠席したいので、事前に幹事には欠席を伝えるか、正直面倒な時は金を払って欠席する。ちなみにどうしても仕方のないとき出たことはあるし、酔っ払いに絡まれたこともあるが、盛り下がるとか気にしないので全部撥ねつけて隅で飯を食っているだけなのでそのうち積極的には呼ばれなくなった。社会情勢の変化もあるかもしれない。

 

 さて、ことほど左様に酒が駄目、しかし酒のつまみを推奨されるようなメニューは好きなので、居酒屋は嫌いではない。あの店内に漂うアルコール臭さえなければ天国のような品揃えだが、居酒屋なので仕方ない。一人では行かないというか行けないが、居酒屋メニューは食べたい。前回記事通り、家でもチータラ大量消費しているとおり、あの手のつまみは好きだし、しょっぱいものをちょっとだけつまんで飯をかっこむのはさらにいい。白飯がなくてもいい。水でいい。しょっぱいものと水でいい。不健康~~~~~~~~

 なお居酒屋のなんかちょっとおしゃれめなメニューはたいてい食えなくて困るので、めちゃくちゃ普通の居酒屋がベストなのだが、そうだ思い出した焼肉もこう、肉をよく焼いて塩を大量にふって食べるのがいい、が、一人で食うにはあまりに割が悪いのでいかない。一人外食は全般苦手である。なおこれは所謂おひとり様無理的な文脈というより、自分の飯に金をかけるのが苦手なので、人とは食う。基本的に飯代は、その人に払うと思っている。脱線。

 

 まあ要は酒が飲めるわけではないが居酒屋で安めの皿をつまんで食いたいなあという話。昼? いや夜に。

チータラを食べている

 チータラがうまい。

 ここ数年、チータラの魅力に取り憑かれている。あれは尋常の食べ物ではない、と、思う。これから語る内容はチータラに関するどうでもいい、かつどうしようもない内容である。いつも以上に果てしなくくだらない内容であるので心してほしい。

 

 まず、チータラは手が汚れない。

 多少チーズくささはつくが、ポテチや酢昆布のように粉が手につくことはない。これはとんでもないことだ。作業の合間にぱくり。ゲームをしながらぱくり。しかし、この間食で手を拭いたり、(衛生的にはどうかと思うが)舐めたりしてコントローラーやマウス、キーボードを汚すことがない。画期的だ。チョコや個包装でしか享受できない恩恵だったが、これは素晴らしい。豆菓子なども手は汚れないが、ものによってべたつく可能性もある。しかしチータラにはない。そのうえ、粉が散らないということは、食べかすの発生が大幅に抑制できるということだ。恐ろしい食べ物である。手だけでなく、道具たちも汚さない。そのうえ、チーズくささの多少だけで、まわりに破壊的な香りもふりまかない。いかさきやジャーキー類とはここが異なる。なんという利便性か。ありがたくてたまらない。

 次に、チータラはカロリーの塊だが、炭水化物は比較的少ない。

 炭水化物を減らせば即時痩せるような謎の説に私は与しない。しかし、夜中に活動することの多い身として、若干は気になることもある。そもそも痩せたいという願望が特に強いわけでもない(太りたくはない)自堕落な身としては、そこまで自分の体形維持のために頑張る動機もない。しかし、炭水化物が少ないことが、若干の免罪符として私の心理に影響する。なんとなく、夜中に食べても良いのではないか。すくなくともポテチを三、四枚一気に口に入れることより罪は浅くないか。ところで免罪符、名前からして罪を低減させてくれるという効果を持つというのに、歴史的経緯のせいか、うっすら否定的文脈がぬぐえないのがすごい物体だなと思う。罪が減る。それすごいことでは? しかしろくなもんでもないというのが定番。ものに罪はないが、損しているなあと思わないでもない。脱線。

 最後に、これはたいへん個人的な趣味だが、「分離の楽しみ」を手軽に味わいながら食べることができる優れものである。

 分離の楽しみとは何か? 諸兄はオレオを分解したことはあるだろうか。チーズおかきをきれいにはがしたことは? アポロを二つに分けることは? あるいはピーナッツクリームが挟まれたフランスパンやコッペパンを片側だけにクリームを残して分解することは? これを楽しめる場合はチータラの魅力にもすぐに気づくはずだ。そう、チータラは、チーズとタラをはがせるのである。

 手ではがしてもいい。汚れることはほとんどない。あるいは口の中で分解してもいい。はがした焼きタラを口の中にためて一気に食っても、あるいは逆でもいい。きたない話だ。しかしこれが楽しい。享受されたままを食べるしかない体験ではなく、自身で工夫を凝らして楽しめるところがいい。同時に食べたい場合は食べればいい。はがして味わってもいい。この自由度、そして楽しみ。一つ一つが小さいながらもそれなりに長さがあるので、楽しみは尽きることがない。まったくわからない方には失礼した。行儀が悪い話なので忘れてほしい。

 

 以上の理由からチータラばかり食っている。なとりのお徳用ばかり買っている。スーパーやおかしのまちおかで買いまくっている。日に一袋……は食べすぎかと思って少し控えているがそれ近く食っている。最近このシリーズにブラックペッパー味が出たのだが、めちゃくちゃうまいので山ほど食ってしまい、先ごろよく行く店のブラックペッパー味がなくなってしまった。カマンベール入りは比較的入手しやすいが、ブラックペッパー味は個人的にやや困難であるので、いたく落ち込んでいる。どこかにないか、ブラックペッパー味。

好きな季節の話

 季節の話を見るといつも思う。
 私は誕生月が晩秋なのだが、その月が一年で最も体調メンタルともに悪化する。風邪すら滅多にひかない人間だが、風邪をひく(ここ二年くらいはひいていない)。一年でもっとも死にたくなる(ここ二年くらいはこちらが重い)。より悪いことに誕生日付近になるとさらに増す。なので誕生日付近が憂鬱すぎて誕生日を人に言いたくない。

 ここで悪いことに、晩秋は季節として外から眺める分にはかなり好きなのだ。紅葉がかげり始め、時雨に散り、冬へと様変わりしてゆく様子はとてもとても好きだ。指先が冷たくなり、コートが厚くなり始め、見るべきもののなくなってゆく景色。非常に好ましいと思う。本当に。
 よって、見ている分にはいいが、体感したくはない、それが晩秋であるので、晩秋に対する感想がどんどんこじれていく。晩秋は好きだが、体調は崩したくない。明るく楽しい人格でいたい。よってそれを妨げるものはあまり好ましくない。しかし晩秋の風情は捨てがたい。難しい。

 ここまで書いてなんとなく悟ってしまったがこれはあれだ、推しに会うと感動のあまり気持ち悪いみたいなあれなのではないか? 体内のキャパを晩秋が超えていくことによる体調不良。なるほど。私は推しに会うと足が震え吐きそうになる種類の人類なので、この可能性はなかなか高い。そうか、そうだったのか。推しだったのか、お前……

眼鏡とコンタクト

 眼鏡をかけている。理由は単純にド近眼のため。人生のうち四半世紀は眼鏡をかけている。眼鏡が本体と言ってもなかなか過言ではない。それくらい眼鏡がないとどうにもならない。

 よく訊かれて面倒な問いに「コンタクトにしないの?」がある。しない。理由はおおむね三つ。まずコンタクトが怖いこと。次に眼鏡が好きだということ。最後に、四半世紀も連れ添った眼鏡面に慣れているので、眼鏡のない面に耐えられないこと。
 ただ、こうして理由を述べると、コンタクトおすすめ閥の人類から必ずコンタクトを勧められるので、現実に主張することはほとんどない。コンタクト、できないんだよね、で終わりにしている。「不可」の断絶力はありがたい。なんと言おうと不可なのである。これを第三者が覆すことは難しい。よってこれが一番面倒がなくていい。

 ただ、上記の理由以外にもずっと疑問なことがある。コンタクト、もしや眼鏡よりかなり高くつくのではないか。

 コンタクトにハードとソフトがあることは知っている。目薬さえさせない人類に硬いものなど入れる度胸はなにがあってもないと思われるので億が一にもコンタクトにするならソフトがいい。が、基本使い捨てと聞く。ということは定期購入確定である。
 高くないか。眼鏡であれば最悪三年から五年くらい同じものをかけていられるが、眼鏡が買える額(私の眼鏡はゆきち三枚~五枚)では一年半から二年半くらいしか保ちそうにない(JINS調べ)。

 しかし眼鏡はどうか。平気で五、六年かけていられる。倍以上保つ。この差は大きい。なんでもかんでもコスパではかる愚は理解しているものの、これだけ差があるとなるとかなり高くつく。それに聞くところによるとワンデーをばんばん使い捨てるにせよ、目薬やら洗眼用の某が必要になるらしい。ランニングコストよ。まあそれは眼鏡も洗剤が要るのでどっこいかもしれないが。

 本当はもっとまめにレンズの度を調整した方がいい等あるのは承知の上だが、そこまでとてつもなく大事にしたいわけでもない私にとって、更に眼鏡派であることを補強する材料が出来てしまった。困った。いや、困らない。何故なら私は眼鏡派眼鏡族である。