色が嫌い

 嫌いな色がある。

 橙、黄、白、桃、緑、赤、紫、青、茶。

 だいたいこの順に好きではない。好きな人は好きでいてくれ。たぶん世界が違う。

 いやもう見てもらえればわかるが全体的に有彩色はあまり好きではない。せめて少し濁っていてくれたらいいが、全体に明るい色は苦手だ。目に痛い。ならパステルカラーは、となるが、これもいやだ。白っぽくてあいまいで、いかにもかわいらしい色は喉の奥がつっかえる。繰り返すが好きな人は好きでいていい。

 なぜこんなにも嫌いなのか、と考えて、色の心理学をあたってみたが、どれも理由付けを見れば見るほど腹が立ってきたのでやめた。まあ、ネットで当たれるようなものはバーナム効果の塊をちょいと弄ったようなクチが多い(偏見)ので、真に受けるほうがおかしいのかもしれない。やめた。

 ふと見ると、いやな思い出と結びついているという人がいた。ふむ、そういうのもあるらしい。思い返してみたが、常に「嫌い」という気持ちがくっついてきて、振り返る気がすぐに失せた。

 いつから嫌いかもわからないし、いつまで嫌いかもわからないが、どんな小物を選ぶにも橙と黄が入ると相当好きでない限りは手に取る気が起きない。例外は急に飲みたくなった時のオレンジジュースとバナナ豆乳とレモンティーくらいだろう。本当になぜなのか。わからない。

映画が好きではない

 映画が好きではない。

 この段階で「おっとそれは映画好きの私に対する挑戦か?」と思う方や、「好きな人を否定しないでください! 映画はいいものです!」と大声で叫びたくなる方は、たぶんこの後の話を読むべきではないと思うので、静かにページを閉じていただきたい。
 私がこの後お話しすることは、映画好きに対する挑戦でもなければ、映画を好きな方に対する否定でも何でもない。私が個人的に、あんまり好きではない、という話だ。
 それを思考の整理がてら書くだけなので、どうか気にしないでほしい。


 好きではない理由は、まあ本当に大したことではない。
 きついのだ。単純に。あのでかい画面で、でかい音で、強い光を浴びせられるのが嫌なのだ。それが映画という娯楽なので、もうこれは単純に合わないのだと思う。特にでかい音が厳しすぎる。頭が痛くなる。終わると耳がぼーっとする。なので、自分から見に行くことはない。
 だが、友人の中には映画に行きたがる者もいるので、たまに付き合いで行く。映画が好きな人間の前で、映画が嫌だという顔をするわけにもいかないので、それなりに楽しさは装うが、正直その二時間だか何時間だかを拘束されるならカラオケに行きたい。カラオケもたいがいでかい音だが、歌っているのも喋っているのも友人なので構わない。ちなみにオタクなのでカラオケで布教会というか鑑賞会をしたこともあるが、基本勘弁してほしかった。音がでかすぎる。


 というかここまで書いて思ったが、自分は、映画の光も音も確かにきついが、興味がないものを延々見させられるのが嫌なのだろう。しかもそれに対して3000円近く払う必要があるのも嫌なのだろう。光と音の強い映画が好きではないうえに、付き合いで3000円かそれ以上を支払い、かつ2時間以上拘束され、終わってから感想会という名の「寝てなかったか確認会」を開かれるのが嫌なのだろう。うーん、書いてみたがだいぶ嫌だ。
 そもそも布教されるまで見ていなかった作品は、そも興味がないので、無理やり摂取させられるのは苦痛でしかない。興味があれば自分で見るんだわ。映画に連れていかれたりDVDやらブルーレイを再生させられなくても自分で買うんだわ。そこから興味がわくことはないんだわ。嫌なだけなんだわ。そうは思うが、まあ短い人生の半分くらいは付き合いのある友人のことなので、付き合う。嫌だとは言いづらい。なので断り文句を探すしかない。だが悲しいことに、私は別段、優先させるべきイベントを持ち合わせていない。追っているジャンルはさほど浮き沈みがない。スマホ一つでどうとでもなる。そして私は友人にうそをついてまで約束をぶち切るのは嫌なので、付き合うしかなかったりする。それを何度か繰り返している。

 映画に三回連れていかれ、そのうち一回はなんとかかんとかという座席揺れが発生する代物で、吐きそうになった。あと興味のないDVDを善意に基づく押し貸しを三本され、感想を求められた。そして興味のない映像作品の鑑賞会を二回開かれた。嫌だといわなかった自分が悪いのだろうか? 悪いのだろうな。しかし友人にうそをつくのも嫌だったし、友人の好きなものを否定するのも罪悪感があった。だが限界だった。映画代も交通費も時間も、なぜ私が私の別に好きでもないものを摂取するために使わなければならないのか、と思うと、あまりにばかばかしかった。ついでに書いてしまうと私は一切酒を飲まないが、飲み会に連れていかれることは多かった。多く払わされるとかそういうことはなかったが、その金があったらもう少し飯がましなところに行きたかった。つまみが嫌いなわけでもないし、まあ別に行くには行ったし、払うには払ったが、私に配慮しようという気配はなかった。とはいえ私は飯にそんなに興味はないが……

 もういいだろうと思って、その友人と連絡を取るのはやめた。結婚したらしいが、それ以上のことは知らない。連絡はすべて切った。映画はより嫌いになった。二度と見に行くまいと思っている。


 さて友人の愚痴で話が変わったが、結局映画は好きではない。ドラマもアニメも興味はない。舞台劇にも興味はない。布教されることが好きではない。しかし、好きな人がいるのは否定しない。ぜひとも大いに映画を楽しみ、ドラマやアニメにのめりこみ、あるいは舞台劇の客席で黄色い声援を押し殺したり叫びを我慢したりしてほしい。ただ、皆が皆その娯楽を好きなわけではないということは理解してもらえると、私のような人が少し助かる。できればそんな人がいるんだなあくらいに頭の片隅においていただいて、想像力を働かすちょっとした破片にしてもらえると嬉しい。

絵のような話

 絵のような小説を書きたい、と思っている。

 多分そう思っている。思っているだけで、書けているかは知らない。日々何かしらの文章を書いている(と言っても二次創作でだ)が、ほとんど掌編で、あんまり長い話は書かない。たぶん書けないのかもしれないと思う。

 それでおそらく、自分は絵のような小説(と呼ぶのが高尚であれば、文章、でいい)を書きたいと思っているのではないか、と考えた。それは自分が絵を描けない劣等感のようなものを抱いているからだろうと思う。

 絵を描くのは大変なことだ。絵を描ける人、それまでに何千時間何万時間と絵に懸けてきた人の努力を尊敬する。私にそれはできない。だから絵は描けない。ただ、描けないことには劣等感を覚える。門が違う。描きたいなら練習すればいいのだが、自分の理想どおりにならないことには黙って耐えられないらしい。それで放り出すので、いつまでも描けない。

 絵の表現が完成するまでには大変な労苦がある。大まかな図を決める。下書きをする。それから線画を作って、それから色を塗る。色塗りもざっくり一色を塗ればいいというものではない。人によるが、さまざまに塗り分ける。それから効果をつけたり、線画の色を変えたり、背景を調整したりとやることが多い。一枚作るのにたいへんな時間と手間がかかる。

 それを思うと、字の表現は簡単である。書いて、終わり。今は画像に起こすのも簡単だ。推敲の手間はゼロではないが、文章は誰にでも書ける。巧拙は問題ではない。絵の巧拙も現在問題にしていない。ただ工程が違う、工数が違う、ということだ。せっかちな私には、絵を完成させるだけの気長さがない。だから工数の少ない字で表現する。

 しかし、たぶん表現したいのは場面なのだと思う。だから一枚の絵で切り取れる話が多い。画面は変わり映えせず、ただ細かいところを描写したり、表情の奥を説明したりするに過ぎない。絵の説明を書いているのに近い。だからきっと、長い話は書けない。

 

 という、今日はそれだけ。

適齢期

 35で死のうと思っている。
 何故、というのはない。ただ漠然となんの目的もなく生きるには35が限度かなと思った。35の後は考えていない。まあだいたいいつもノープランで生きているので、おそらく35になったらなったで身の振り方は考える話だとわかっているが、まあなんとなく35あたりが潮時だろうと考えている。考えていた。そうこうするうちに35になる。
 困った。何もない。まあ何もないならないで計画通り35で死ぬだけだ。取り急ぎ今年で35なので、今年会う方は一期限りと覚悟しながら会おうと思う。会う方が居るのだろうか。このコロナ全盛期に。わからないが、そのつもりで居よう。
 だいたい芥川も太宰もこのくらいで死んでいるし、人の、と言っても私の場合は本当に近しい人間だけだが、誰かの記憶に残り続けるならこのくらいがちょうどいいのかもしれない。なんだちょうどいいって? わからん。結婚には適齢期という考え方があるそうだが、死にはないのだろうか。調べてみるかな。
 ところでふと、困った、と思うのだから、死ぬのも困るのだろうか。わからないが、死ぬためにする努力が、たぶん面倒なのだと思う。面倒ごとなく死にたいものだ。

旅行が苦手だという話

 旅行が苦手だ。
 とにかく旅行が苦手だという話をするので、旅行が好きで好きでたまらない人はこの時点で読むのをやめてほしい。

 まず、計画を立てるのがめちゃめちゃ苦手だ。計画を立てよう、と思うだけでもう三本くらい立ったのではないかというくらい気力を費う。一日歩き回る当日よりおそらく費う。それくらいかったるく、つらい。
 単なる外出もメインの目的以外は決めないし決めたくない。そしてたいてい決まらない。なんとなく、その場で決めたい。予定外があったときにパニックになるから、なりたくない気持ちが強すぎる。だから同じ場所を同じように巡っている。同じ店。同じ道。同じ音楽。
 一人で近所に行くならそれでもいい。旅行もそうすればいいのはわかる。一人で行け。しかし一人で行くとなると、途端にまあいいかなと思い始める。行くまでもないかもしれない。交通費をかけてそこまで行く必要はないかもしれない。そんなことを考えるうちに意欲はしぼみ、外出予定はなかったことになる。
 これは目的の魅力が足りないとか、そういう話ではない。諦めるならそれまでとかそういう話では一切ない。正直意欲の問題でもない。自分に金をかけるのが嫌なのだ。特に消えもの――食事に代表されるような、体験の類、そういうものに金をかけたくない。自分がその体験を得たところでたいした感想も出せないし、わざわざその価値をかけるほどの己ではないと思う。だから一人で行くのは金の無駄だと思ってしまう。体験そのものではなく、得る自分に価値がない。だから得る必要はないし、どうせならほかの誰かがそれを得て幸せになってほしい。
 だから、誰か同行者がいるならこれは考えなくなる。その人のために金をかけるし、その人のための体験なら喜んで行く。主体が自分ではないからだ。自分を他人に供せるなら問題はない。自分が体験するのではなく、その人が体験するその一部に自分がいる。だから自分のために金を払うわけではない。そう思えるならいい。ただし人と出かけるには計画が必要なので、これはこれで苦手だ。話が戻ってくる。

 だからまあ、旅行は苦手だ。そしてこれはとても旅行に失礼だから、家から出ない方がいいと思う。

 なお、実際に計画と違うことになったときのリカバリはできる方だとは思う。そんなもんだよなと思うだけで、さしてストレスにも思わない。だから計画をたてる自分が恐れているのは幻だ。わかっていても、それが嫌だ。

枝豆やだし巻きやちょっとした芋など

 酒が飲めないが、居酒屋に行きたいと思うことがある。

 酒は本当に一切飲めない。アルコール分があるだけで酔う。肝臓の分解能力がゼロなのではないかという疑惑がある(実際のところはほんの少しだけある、たぶん)。めちゃくちゃ薄いチューハイ(世間で所謂「ジュース」と評されるもの)も一口でじゅうぶん。注射だのなんだので肌をアルコールで拭かれるだけでかぶれて真っ赤になる。外出先でアルコール噴射されるのは、少量ならなんとかかんとか我慢できるがにおいがもう駄目。やめてほしい。というくらいアルコールが駄目なので、原則手の洗えない場所ではなるべく何にも触らないように気を付けている。待った今日はこの話をするために書いているのではなくて、酒の話。

 この酒が駄目なのは遺伝なので、基本的にどうすることもできない。職場の酒席は原則参加しない。金を払ってでも欠席したいので、事前に幹事には欠席を伝えるか、正直面倒な時は金を払って欠席する。ちなみにどうしても仕方のないとき出たことはあるし、酔っ払いに絡まれたこともあるが、盛り下がるとか気にしないので全部撥ねつけて隅で飯を食っているだけなのでそのうち積極的には呼ばれなくなった。社会情勢の変化もあるかもしれない。

 

 さて、ことほど左様に酒が駄目、しかし酒のつまみを推奨されるようなメニューは好きなので、居酒屋は嫌いではない。あの店内に漂うアルコール臭さえなければ天国のような品揃えだが、居酒屋なので仕方ない。一人では行かないというか行けないが、居酒屋メニューは食べたい。前回記事通り、家でもチータラ大量消費しているとおり、あの手のつまみは好きだし、しょっぱいものをちょっとだけつまんで飯をかっこむのはさらにいい。白飯がなくてもいい。水でいい。しょっぱいものと水でいい。不健康~~~~~~~~

 なお居酒屋のなんかちょっとおしゃれめなメニューはたいてい食えなくて困るので、めちゃくちゃ普通の居酒屋がベストなのだが、そうだ思い出した焼肉もこう、肉をよく焼いて塩を大量にふって食べるのがいい、が、一人で食うにはあまりに割が悪いのでいかない。一人外食は全般苦手である。なおこれは所謂おひとり様無理的な文脈というより、自分の飯に金をかけるのが苦手なので、人とは食う。基本的に飯代は、その人に払うと思っている。脱線。

 

 まあ要は酒が飲めるわけではないが居酒屋で安めの皿をつまんで食いたいなあという話。昼? いや夜に。

チータラを食べている

 チータラがうまい。

 ここ数年、チータラの魅力に取り憑かれている。あれは尋常の食べ物ではない、と、思う。これから語る内容はチータラに関するどうでもいい、かつどうしようもない内容である。いつも以上に果てしなくくだらない内容であるので心してほしい。

 

 まず、チータラは手が汚れない。

 多少チーズくささはつくが、ポテチや酢昆布のように粉が手につくことはない。これはとんでもないことだ。作業の合間にぱくり。ゲームをしながらぱくり。しかし、この間食で手を拭いたり、(衛生的にはどうかと思うが)舐めたりしてコントローラーやマウス、キーボードを汚すことがない。画期的だ。チョコや個包装でしか享受できない恩恵だったが、これは素晴らしい。豆菓子なども手は汚れないが、ものによってべたつく可能性もある。しかしチータラにはない。そのうえ、粉が散らないということは、食べかすの発生が大幅に抑制できるということだ。恐ろしい食べ物である。手だけでなく、道具たちも汚さない。そのうえ、チーズくささの多少だけで、まわりに破壊的な香りもふりまかない。いかさきやジャーキー類とはここが異なる。なんという利便性か。ありがたくてたまらない。

 次に、チータラはカロリーの塊だが、炭水化物は比較的少ない。

 炭水化物を減らせば即時痩せるような謎の説に私は与しない。しかし、夜中に活動することの多い身として、若干は気になることもある。そもそも痩せたいという願望が特に強いわけでもない(太りたくはない)自堕落な身としては、そこまで自分の体形維持のために頑張る動機もない。しかし、炭水化物が少ないことが、若干の免罪符として私の心理に影響する。なんとなく、夜中に食べても良いのではないか。すくなくともポテチを三、四枚一気に口に入れることより罪は浅くないか。ところで免罪符、名前からして罪を低減させてくれるという効果を持つというのに、歴史的経緯のせいか、うっすら否定的文脈がぬぐえないのがすごい物体だなと思う。罪が減る。それすごいことでは? しかしろくなもんでもないというのが定番。ものに罪はないが、損しているなあと思わないでもない。脱線。

 最後に、これはたいへん個人的な趣味だが、「分離の楽しみ」を手軽に味わいながら食べることができる優れものである。

 分離の楽しみとは何か? 諸兄はオレオを分解したことはあるだろうか。チーズおかきをきれいにはがしたことは? アポロを二つに分けることは? あるいはピーナッツクリームが挟まれたフランスパンやコッペパンを片側だけにクリームを残して分解することは? これを楽しめる場合はチータラの魅力にもすぐに気づくはずだ。そう、チータラは、チーズとタラをはがせるのである。

 手ではがしてもいい。汚れることはほとんどない。あるいは口の中で分解してもいい。はがした焼きタラを口の中にためて一気に食っても、あるいは逆でもいい。きたない話だ。しかしこれが楽しい。享受されたままを食べるしかない体験ではなく、自身で工夫を凝らして楽しめるところがいい。同時に食べたい場合は食べればいい。はがして味わってもいい。この自由度、そして楽しみ。一つ一つが小さいながらもそれなりに長さがあるので、楽しみは尽きることがない。まったくわからない方には失礼した。行儀が悪い話なので忘れてほしい。

 

 以上の理由からチータラばかり食っている。なとりのお徳用ばかり買っている。スーパーやおかしのまちおかで買いまくっている。日に一袋……は食べすぎかと思って少し控えているがそれ近く食っている。最近このシリーズにブラックペッパー味が出たのだが、めちゃくちゃうまいので山ほど食ってしまい、先ごろよく行く店のブラックペッパー味がなくなってしまった。カマンベール入りは比較的入手しやすいが、ブラックペッパー味は個人的にやや困難であるので、いたく落ち込んでいる。どこかにないか、ブラックペッパー味。